真言宗 駕龍寺


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コラム2

コラム (福寿海 第4号より)

『仏の道を歩む ~ 利他の行に励む心「布施行」 ~』

 

早いもので、今年もお盆の季節がめぐってきました。昨年の東日本大震災以来、今でも多くの方が被災地のために物心両面の支援を続けています。たとえ時間が経過しても、困っている人のために心を尽くし手を差し伸べるという気持ちは人としていつまでも持ち続けたいものです。

さて、仏教の大切な理念に二利円満という言葉があります。二利とは、自らの悟りのために修行し努力すること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)で、わたくしたち仏教徒はこの二つを共に完全に行うことを理想とします。

お大師さまが中国の留学からお帰りになられたとき、朝廷に対して留学の成果をご報告になった文章の最後に、「あえて一言で仏教というのは何か、ということを表現するならば、それは、二利に尽きる」とお大師さまはおっしゃっておられます。自利とは自分自身にかかわることですから、心がけ次第で何とでもできるのですが、とりわけ他人の為に自分の身体や財産を喜捨する事、つまり布施をすることは簡単そうでなかなか難しいものです。
「お布施」といえば現代では僧侶の読経に対する御礼であるとか、中にはお寺に何かあった時のための積立と勘違いしている人や、お寺やお宮が本尊様や御祭神のために寄進を募ることが()(あたか)も罪悪であるかの如く考え、批判する人も稀におられるようですが、それは見当違いも甚だしく、布施というのは、仏教の大切な行(ぎょう)の1つで「あまねくほどこす」という言葉です。
その布施行には、法を説く“法施(ほうせ)”、財物を施す“財施(ざいせ)”、畏怖の念を抱かせない“無畏施(むいせ)”があります。金封の「御布施」は、このうちの財施にあたるわけです。 さらに、これらの布施を行う場合、施す人と施される人、施し物の3つがともに清浄((しょうじょう)でなければならないとされています。つまり、見返りを期待したり、何か魂胆があったりすれば、布施にはならないのです。
つまり、御布施は僧侶への“報酬”ではなく、本尊様やお大師様への報謝として捧げるものなのです。

そもそも布施とは、僧侶に限らず、人に物品を施すことです。これをサンスクリット語では「ダーナ」といい、「あげる」「与える」ということで、英語の give と同じです。
「お布施」という言葉からは宗教的な寄付行為を連想しますが、ダーナはもっと単純で広い意味です。誰かに何かを与えることはすべてダーナになります。知識のある人が何かを教えてあげたり、時間のある人がその時間を使って誰かの役に立つこともダーナです。人は他人に何かを与えることによって社会の中で役に立つ存在となり、その生き方が意味のあるものとなります。そして、「しっかりしないといけない」と自分の行動も守られるのです。ですから ダーナは、在家の人々がまずなすべき道徳なのです。

世の中には、お茶の一杯も相手に飲ませるのが惜しい人もいれば、反対に、惜しげもなく物品を施す人もいます。私達は、施してくれる人に好意を持ちます。それは、物品をもらったからではなく、自分に対する心づかいが嬉しいからです。だからこそ、何か,おいしい物があると、その方におすそ分けしようと思うのです。
蒔かぬ種は生えないように、人様に施しをしない人に、施しの物品や心づかいがされるはずはありません。人様に施すということは、惜しいという 私の欲 を捨てる行なのです。他人のためにしていることが、実は自分のための行でもあるのです。物惜しみをする人は、いつも自分の財物を失うことを恐れ、それを守ることのみに心を縛られて、頭を悩ませます。お大師様は、この事について次のように述べられています。

 

()(むさぼ)り、惜しむ心に勝てず、
人のために財を使うことがなければ いつも餓える心に苦しむ。
少しの食物も分かちて、甘さを()(さ)き与える者は
この苦しみから(のが)れることができる。

 

つまり、失う苦しみから逃れるため、貪り・物惜しみの心を制するために、「布施の行」をしなさいということです。布施の行とは我欲を捨て、人のために生きることです。
貪り惜しむと、結局は自分がさみしく苦しむだけですね。

私は小僧のころ、「はたらく」という言葉は「傍(はた)を楽にさせる」と言うことだよと教わったことがあります。自分のためだけではなく、周りにいる家族や同僚を楽にさせるために自分が「働く」のです。自分が一生懸命働くことは周りに対する労働力の布施です。住職となった今は心から「なるほどなあ」と思えます。皆さん、傍の人を楽にするため、一生懸命「はたらき」ましょう。
また、「何か布施したいけれど、私には差し上げるものがない」とおっしゃる方達はどうすればよいのか。そういう時は笑顔でも良い、優しいことばのひとつでもかけられるではありませんか。

『雑宝蔵経』には「無財の七施」が説かれています。
優しいまなざしと慈愛に満ちた微笑で人に接するのが「眼施(がんせ)」と「和顔悦色施(わげんえっしきせ))」。優しいことばで人に接するのを「言辞施()(ごんじせ)」。

 

自分の力を人様に貸すのを「身施)(しんせ)」。優しい心で他人に喜びを差し上げるのが「心施(しんせ)()」です。次に、自分の座席を人に譲る「床座施)(しょうさせ)」。そして「房舎施(ぼうしゃせ)()」、宿を貸す事です。このように日常、何時、どこでも布施行は出来るのです。
布施は財力や学力がなくても、柔かい心、優しい心さえあれば立派にできるから、「無財の七施」といいます。無財とは、「財源や財物が無くても」というだけではありません。「金銭では算定できない尊い価値」で、この意味で「無価」ともいいます。絶対の価値ということです。

しかし、せっかく布施行をしても、「こういう事をしてあげた」、という思いが心のどこかに少しでもあるのなら、それは、正しい布施とは言えないのです。執(とら)()われずに行じることが陰徳を積む事になります。
私たちは、自分の力で生きるのではなく、生かされて生きるのです。このことへの謝念の実現が「布施」なのです。
お盆を迎え、いま生かされているいのちを思い、何か自分にできる布施の利他行を見つけ、実践することも御先祖様の恩に報いる一つの方法といえるでしょう。
  
 施して喜び、 施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、
 この三つを
ともに忘れるのが、最上の施しである。「大般涅槃経」
 

    合掌

 

コラム (福寿海 第7号より)

『献寿歳旦』
 
あけましておめでとうございます。
年頭に当り、平成二十六年、皇紀二千六百七十四年の新春を御慶び申し上げ、謹んで御皇室の弥栄を寿ぎ奉り、檀信徒皆々様の御隆昌と御壮健を祈念申し上げます。昨年も当山に対しまして格別の御信援を賜りましたこと、衷心より厚く御礼を申し上げ、本年が日本国並びに国民にとって、幸多き年となりますようお祈り申し上げます。
古来よりお正月は門松・松飾りに象徴されるように、新年といえばやはり松や竹の緑を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。松も竹も縁起のよい植物の代表です。これに梅を加える松竹梅は昔より「歳寒の三友」としてめでたさの象徴とされてきました。その松と竹のありようを有と無、古今と上下の対比をもって、仏教の妙理を示した言葉に

 松に古今の色なく、竹に上下の節あり

という句があります。
時の流れは、松の緑のように永遠に変わらないものですが、その変わらない中にあって、一年の節目である正月は、竹の節の一つといえるでしょう。新年を迎えて、知人に会えば、「明けましておめでとう」と挨拶をします。そのとき、「昨日が今日になっただけ、いつもと変らないじゃか。何が明けましてめでたいんだ」という人があるとしたら、その人は、松に古今の色の無いことは知っていても、竹に上下の節のあることを知らぬ人でしょう。
逆に「正月だ」「年の初めだ」といって浮かれてばかりいる人は、竹に上下の節のあることは知っていても、松に古今の色の無いことを忘れている人でしょう。物事をみるには、変らないものと、変るものとの二つの視点が必要なのです。

「理事」とか「理事者」という言葉は、ごく身近によく使われる言葉ですが、「理事」はもともと仏教の言葉で、理とは根本の道理、事とは表にあらわれた現象のことです。したがって、会社の理事者とか農協の理事というのは、会社なり農協なりの運営の大綱を把握するとともに、現実の具体的な問題の処理にあたる人のことを指します。草木に例えるならば、とは土に埋もれて見えない根であり、とは地上にあらわれた幹や枝葉のことです。切花はどんなに美しくとも根がないのでその生命は短かく、あっとう間に枯れてしまいます。
同じように、いかに現実の具体的問題に通暁し、またこれが処理の術に長じていても、大局を把握していなかったら、やがては行き詰まってしまうであろうことは免れがたい運命でありましょう。

にもかかわらず、事は理にくらべると、直接的で身近であり、それだけに取り組みやすく、かつまた現実の生活に結びついているので、人はともすると理を忘れて事をのみ走り、根無し草の一生を送りかねません。

お大師様は、

 華容は年の賊に偸まれ 鶴髪は禎祥ならず(性霊集)

つまり「花のごとく麗しき姿は、やがて時の流れに奪い去られ、白髪もめでたきしるしとはならぬ」とおっしゃって、理を忘れ、ただわけもなく事に浮かれている人々の心を戒められたのです。

正月を、いや正月だけでなく、己が職分、そして人生を意義あらしめるには、松に古今の色がないという理の面と、竹に上下の節があるという事の面と、両面に心を配らなくてはなりません。

    一年の計は殻を植ゆるにあり
    十年の計は樹を植ゆるにあり
    百年の計は徳を植ゆるにあり
    人のもっとも植ゆべきは徳なり       (義堂周信)

食料生産には、春に何を植え、秋に何を収穫するか、年間の段取りが必要であり、植樹には「桃栗三年、柿八年」というように、十年単位の物差しという長短の節が必要であり、人の一生には百年の大計が必要であり、人生にとって最も大切なことは、古今無色の徳を積むことです。

結びに、「正月」とは、「修正(しゅしょう)月」の略語です。 修正とは、「心身を正しく修める」つまり、自らの心をのぞき、 善悪の判断がしっかり出来ているかどうか点検するということです。 檀信徒の皆様におかれましては、新年を迎え、心身を正しく修め、 ご本尊さまのご加護を頂き 皆様各々の希望にむかって今年一年邁進されますことを ご祈念申し上げ、新春のご挨拶とさせていただきます。

 南無大師遍照金剛

                          合掌


 

 

コラム (福寿海 第8号より)

『身も心も故郷に帰る ~ 盂蘭盆會によせて ~』

 

今年もお盆をお迎えする季節がまいりました。土地土地の習慣や風習はさまざまですが、どこの土地でもご先祖さまの御魂()(みたま)がお帰りになることを待って準備を整え、お盆十三日の夕方、迎え火をたいていよいよご先祖をお迎えします。

人は亡くなると、まず草葉の蔭に宿り、そして時間をかけて(子孫の供養を受けて)、山(自然)に帰って、祖霊(先祖)となり、子孫を守るのです。
このご先祖様は、一年に二度この娑婆の世界にもどって来られます。一度はお正月。年末になると家々では、お飾りやお節料理を作って年神と御先祖様を迎える準備をします。
そして、もう一度がお盆です。これは家や地域によって違いますが、二泊三日か、三泊四日のあの世からの小旅行です。
向こうからやって来られるので、基本的にはこちらはよそ行きの格好はしなくていい、私たちは普段着でお迎えすればいいのです。
そしてこのご先祖様を迎えるために、親戚一同が実家へ集まる。これが帰省です。帰省するのは生きた人だけではなく、先祖も帰省しているのです。
お盆の場合は、このご先祖に楽しく過ごしていただくために踊りを踊る。これが盆踊りです。
……以上のようなことが分からないと、正月とお盆は単なる“休み”となり、帰ってきた先祖はそっちのけで、旅行に出かけたりするのです。

実家がある人は考えたほうがいい。実家の嫁はこの期間自分の家には帰れない、ということを。親戚や先祖が帰ってくるのに、その家を守っていこうとうする嫁がいないのでは話にならないではないか(古い考え方かなあ……)。このお嫁さんたちが、実家へ帰れるのは昔から正月もお盆も“藪(やぶ)入り”といわれる十六日でした。(ちなみに十六日は閻魔さまの御縁日です。)
これは、日本人の精神的かつ伝統的な文化で、仏教が日本に入る前からのものだと言われています。これに仏教の盂蘭盆(うらぼん)の考え方が融合することになるのですが、この辺の詳しい話は別の機会に譲ることにします。
しかし、お盆とは、まあなんと、楽し風習なのだろうとつくづく思います。

人はみんな、いつかこの世の役割分担を終える。そして、年に二回、懐かしい人々と面会にやってくるのです。 私も仏様のところへ行ったら、年に二回は懐かしい、そして縁ある人々の所へ帰ってこようと本気で思っています。私の場合、正月もお盆もどちらも二泊三日がいいところだ。それ以上滞在しても、生きてる人に迷惑だろうし、また向こうへ戻ってやることが溜まってしまいそうだからです。
この時期は、各地において様々な盆行事がとり行われますが、どれも心を和ませてくれるものですね。
本来、盆休みは先祖供養のためのお休みなのです。このごろでは、盆休みこそビッグレジャーだといって海外旅行や海や山に大勢出かけて行きますが、お盆には出かけるものではありません。お盆は帰るのです。
仏様がお帰りになるのでから、外に出ている子や孫、家族皆が家に帰って集まってご先祖仏様に感謝するのがお盆なのです。

これが仏教徒の務めではないでしょうか。
毎年毎年同じお盆はやってきません。今年のお盆は去年のお盆とも一昨年のお盆とも違います。そして今年のお盆は二度とやってきません。

心豊かな良いお盆をお迎えください。

 

コラム (福寿海 第9号より)

『年頭にあたり』

明けましておめでとうございます。
平成二十七年の輝かしい新年を檀信徒・有縁の皆様方と迎えられます事を大変嬉しく存じます。
天皇陛下 皇后陛下におかせられましては、常に国民を思し召せられて頂いていることは国民等しく感激する処であり、聖寿の万歳と御皇室の弥栄、わが国の悠久なる発展をお祈り申し上げます。

さて、本年は弘法大師が真言密教の根本道場として高野山を開かれてから千二百年目の年を迎えます。この記念すべき年に高野山では四月二日から五月二十一日までの五十日の間、弘法大師空海上人が残した大いなる遺産への感謝を込めて絢爛壮麗な大法会が執り行われます。

弘法大師は都の喧噪を遠く離れ、紀伊山地の雄大な自然に抱かれた高野山を密教の道場建設の地として選ばれました。国、社会の安泰を永遠に祈り、多くの人々の幸福のために活躍しうる人材を育成したいという思いが弘法大師を突き動かしました。千二百年という大きな節目を迎え、次の百年、千年への新たな時代への扉が開かれます。私どもは高野山開創千二百年を皆様方と共にお祝い致したく存じております。

最後になりますが、昨年の寺院運営ならびに恒例行事も檀信徒の皆様方のご理解とご協力によりまして無魔成満できました事を紙面をお借り致しまして厚く御礼申し上げます。駕龍寺の寺門興隆は専ら寺の努力のみでなし得るものではなく、多くの檀信徒皆様方の努力と真心によってなし得るものと言えます。本年も物心両面に亘る御信援をお願いいたします。

大変寒い日々が続きますが、皆様方にはご自愛頂きまして、駕龍寺の御本尊ならびにお大師様の御加護をいただかれつつ、健やかに過ごされますようご祈念申し上げまして年頭のご挨拶と致します。

 

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