真言宗 駕龍寺


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駕龍寺について

概要

名称 高野山真言宗 備福山正智院 駕龍寺
住職 富山 義賢
所在地 〒710-0042 岡山県倉敷市二日市600
TEL 086-421-5631
FAX 086-421-5625
MAIL info@karyuji.jp

 

概要

 

概要

 

概要

 

概要

 

駕龍寺の黎明(開山縁起)

縁起其の一:報恩大師、備中の山岳霊場として福山の山上に福山寺十二坊を開く
時は人皇第46代孝謙天皇の御代、東大寺大仏の開眼法要や、鑑真和上が来日するなど仏教が盛んな世の中で人々は生活していました。そんな時代に備前国出身の報恩大師は、備前国に山岳霊場として、四十八ケ寺を建立し、ほぼ時を同じくして備中国は往古、神奈備(かんなんび)山、加佐米山、百射(ももい)山とか言われた山の頂に十二の坊を建立し、「福山寺」と号しました。

縁起其の弐:地域の人々と共に新たな地へ
福山寺は小池坊を筆頭として、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊、奥坊、天神坊、万福坊、鍛冶屋坊、真如坊、惣持坊、法積坊と12の山内寺院があり栄えていましたが、徐々に山間部から新開地へ多くの人家が移ったために、正和元年(1312年)には福山寺の十二坊の内、小池坊の頼宥法印が率いて、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊の五坊が帯江村五日市に移りました。
その後、福山寺の跡は足利氏に味方した備中の豪族・荘兼祐が改築して城を構え、建武3年1336年新田義貞方の大江田氏経がこれを攻め落とし、足利直義の大軍を迎え討ったという福山合戦で灰燼に帰しています。
 
縁起其の参:駕龍寺の祖報恩大師
報恩大師は現在の岡山市芳賀に生まれ、15歳で出家、芳賀坊と名乗り、備中・備前の山の中で修行を重ね、数々の霊験を示すようになります。三十才にして吉野山に入り観世音呪を持し、天平勝宝四年(752年)、宮中に召されて孝謙天皇の病気平癒の祈祷を行ない、見事、女帝は快癒されます。女帝は芳賀坊に「報恩大師」という名と「摩訶上人」という号を授けられました。また桓武天皇が長岡宮で沈痾に伏せられた時、観自在根本呪を誦して治されたと伝えられています。『元亨釈書』

 

駕龍寺の歴史

駕龍寺の歴史

 

駕龍寺の歴史は都窪郡山手村西郡の南に位置する福山の山頂に、平安時代に報恩大師が創建したと伝えられている福山寺にさかのぼります。

 

焼失から再建

焼失から再建

 

福山寺は建武2年(1335年)に足利氏に味方した備中の豪族・荘兼祐が同寺を利用して城を構え、翌年新田義貞方の大江田氏経がこれを攻め落とし、足利直義の大軍を迎え討ったという福山合戦に巻き込まれ焼失している。
その後、応永7年(1400年)に南禅寺一麟が残している記憶や、応永末年に総社宮造営にも参加している記憶から、同寺は応永年間の初めには再建されていたと推測されている。

 

移転

当時、福山寺を中心に小池坊、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊、奥坊、天神坊、万福坊、鍛冶屋坊、真如坊、惣持坊、法積坊と12の山内寺院があり栄えていたが、徐々に山間部から新開地へ多くの人家が移って行なったために、正和元年(1312年)には福山寺の12坊の内、小池坊の頼宥法印が率いて、東坊、西坊、乾坊、玉蔵坊の五坊が都窪郡帯江村五日市に移転し福山正智院駕龍寺と号している。

それから約400年を経た第14世高観住職の時代に、元文四年(1739年)から数十年の間に本堂、山門、十六羅漢堂、力士門、十王堂などの諸堂が建立されている。

 

移転

 

その後、宝暦年間(1746~51年)に小池坊、東坊、西坊の三坊が現在の同村二日市に移り今に至る。当代の住職は中興頼宥法印から数えて31世となる。
駕龍寺の本尊は聖観世音菩薩。小池坊の本尊を移したもので、恵心僧都の作と伝えられる。
「福を見て与えずということなく、寿を希うて延べずということなし」とのご利益から福寿海観音と呼ばれている。

 

移転

 

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